戦争を知らない世代へかつての記憶の継承を 北九州市平和のまちミュージアム館長・重信幸彦さん
西日本新聞社北九州本社が制作するラジオ番組「ファンファン北九州」。地元新聞社ならではのディープな情報&北九州の魅力を紹介しています。ラジオを聞き逃した人のために、放送された番組の内容を『北九州ノコト』で振り返ります。今回のゲストは、北九州市平和のまちミュージアムの重信幸彦館長です。
「北九州市平和のまちミュージアム」の館長になった理由
甲木:おはようございます。西日本新聞社 ナビゲーターの甲木正子です。
横山:同じく、西日本新聞社 横山智徳です。
甲木:横山さん、先週は良いお話をお聞きしましたね
横山:はい、大切な話ですよね。
甲木:今週は先週に引き続き「北九州市平和のまちミュージアム」館長・重信幸彦さんをお招きしてお話を伺います。重信さん本日もよろしくお願いします。
横山:よろしくお願いします。
重信:よろしくお願いします。
甲木:先週は、ミュージアムの展示内容とその狙い、そして来館者の反応などについてお話を伺いました。おさらいさせていただきますと、1945年の8月9日、米軍の原爆投下第一目標が西日本最大級の兵器工場があった、私たちが今いるこの小倉であり、視界不良で第二目標の長崎市に原爆が落とされたということ、そして、その兵器工場があった場所に今、「平和のまちミュージアム」が建っているということです。北九州の人にとっては「もし小倉に原爆が落とされていたら」という思いが語り継がれて、原爆を自分事として考える人が少なくないということで、その歴史や思いを映像や音響などの工夫で子ども世代に伝えているというようなことを伺いました。ところで、館長は北九州ご出身ではありませんが、なぜこのミュージアムの館長をされているのでしょうか?
重信:そうですよね、私もなぜ館長をやっているか分かってなかったりするのですが(笑) 私は生まれも育ちも東京なんです。北九州へのご縁というのは、1993年から北九州市立大学の文学部比較文化学科で18年間、教員をさせて頂きました。家族を東京において北九州に単身赴任しましたが、51歳の時、ちょうど2011年東北の大震災の時に、家庭の事情で大学を辞めて東京に戻りました。それで北九州とは離れたなと思っていたんですが、このミュージアムが開館するにあたり館長にならないかというお話を頂きました。「どうして私が?」という話になるんですけれども、私は民俗学という、私たちの日常生活の、場合によっては記録にも残らないような歴史を考えていく学問を専攻していました。そのなかで私が戦時下の日常生活を研究テーマの一つにしていたことが理由の一つかな、と考えています。私が声をかけていただいた時はこのミュージアムが9割5分出来上がってからで、私は(北九州市平和のまちミュージアムを)作るメンバーに加わっていたわけではありませんでした。
戦争の「総力戦」を北九州でリアルに描く
重信:むしろ出来上がったミュージアムの展示を前に、じっくりと一つ一つ眺めキャプションを読んで、自分自身でミュージアムの展示を受け止めて、考えて学んでいく時間を館長になってから持ちました。その結果、手前みそになりますが、よくできている展示だなと思いました。私が研究者として考える「総力戦」というかたちの戦争は、ある部分では人が前向きに戦争に関わり、一方ではそれがゆえに空襲の被害にも合うということが表裏になります。そういう「総力戦」の仕組みというものを、北九州という場所を通して実にリアルに描けていると思いましたす。
甲木:銃後(戦争に行くことがない女性・子供など)のお話になりますけれども、ミュージアムには国防婦人会の人で髭を付けて男装してる人の写真がありましたよね?
重信:はい、八幡東区の国防婦人会の方々の、なにかの余興の時に撮った写真だと思うんですけども。当時国民服と呼ばれていた、男性の服装をしている写真がミュージアムにあります。平和のまちミュージアムには、天井に近いところにたくさんの面白い写真があります。だから目の前の展示だけじゃなくて、ちょっと首を上に上げていただくといろいろ展示に関連する考えさせられる写真がたくさんあるんですが、その中の一つですね。戦時下では、銃後の主婦は家庭の要としての「母」の役割を期待されていたのですが、あの写真は、そうした戦時中のいわゆる性役割分業に対して、私たちも男性と同様に家庭の外で役に立てる、と主張しているように見えます。それは「総力戦」のなかで、戦争に前向き関わることで、社会進出のきっかけをつかんだ人たちの姿でもあります。総力戦では、前線の兵士と同様に、こうして銃後の国民も、もう一つの戦争を戦うのだ、といわれていたんですね。
平和教育の難しさ ミュージアムで工夫する手伝いを
甲木:ミュージアムには、小学生や中学生が平和学習で訪れることも多いと聞いていますけれども、一方で高校生とか大学生はそういう授業もないですし、なかなか触れる機会がないんじゃないかと思います。平和教育という観点から学校の先生方に呼びかけたいことは何かありますか?
重信:そうですね。例えば僕が平和教育してみなさいって言われたら、すごく困るだろうと思うんです。平和教育で何が大変かというと、ある程度、結論が決まってるわけです。「戦争はいけません。平和は大事です」というとそこだけが見えてしまいます。そうするとそこに閉ざされていくことになります。むしろどういうプロセスで戦争と平和というものを捉えていくかが大切でしょう。平和という言葉と言うのは、実はものすごく扱いにくい言葉だと思います。平和を掲げて戦争することもありますし、私たちは平和という言葉を当たり前のように使いますけども、非常に抽象的で、私がよく使う言葉でいうと、かみ砕きにくい「剛直」な言葉なんです。それをどうやって自分事として砕いていくかっていうのは、いくつかステップやプロセスを経ていかなければいけません。それは平和教育の中ですごく難しく大変だろうと思います。しかしそれを工夫して行くお手伝いが、ミュージアムにできればと思っているところです。
市民からの収蔵品を展示
甲木:ミュージアムでは今、市民から持ち込まれた収蔵品展を開催していらっしゃいますよね(※現在は終了)。やはり定期的に市民からの収蔵品も展示されていらっしゃるんですか?
重信:そうですね。こういうミュージアムができて、専門の学芸員さんがいるからこそ市民の皆さまから貴重な資料を寄贈していただいているという状況です。この収蔵品展というのは、家族が複数空襲で亡くなり、そういう記憶をずっと物と一緒に持ち伝えてきた方がそれを寄贈して下さったり、または戦死した身内の方がいて、その方に関係するものをご家族で大事に持ち伝えてきたという方々がミュージアムへ寄贈して下さったりしたものを展示しています。ですから収蔵品展は、固有名詞があまり出て来ない常設展示とは異なり、亡くなった方の固有名詞や、それを伝えてきたご家族のファミリーヒストリーとともに展示が作られています。
甲木:私もまだ収蔵品展を拝見してないので、またお邪魔したいと思っています。
重信:お待ちしております。
横山:今日のお話をお聞きしまして、新聞社に勤めている自分が思ったことは、やはり新聞は大事だと思いました。戦争や平和関連の記事なども僕らの仕事は担っていて、改めて自分の仕事の足元を見つめ直すことができました。ありがとうございました。
甲木:戦争の時は、それがゆえに新聞も戦争に加担して、その反省の上、戦後の新聞はあるんですけれども。先週、今週2週間に渡り、「北九州市平和のまちミュージアム」の館長・重信幸彦さんにお話を伺いました。どうもありがとうございました。
横山:ありがとうございました。
重信:ありがとうございました。皆さん、ミュージアムでお待ち申し上げております。是非いらして下さい。
〇ゲスト:重信幸彦さん(「北九州市平和のまちミュージアム」館長)
〇出演:甲木正子、横山智徳(西日本新聞社北九州本社)