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【ファンファン北九州#35】歴史案内人 瀬戸春巴さん<前編>

(アイキャッチ画像:ゲストの瀬戸春巴さん<写真中央>)

西日本新聞社北九州本社が制作するラジオ番組「ファンファン北九州」。地元新聞社ならではのディープな情報&北九州の魅力を紹介しています。ラジオを聞き逃した人のために、放送された番組の内容を『北九州ノコト』で振り返ります。

歴史案内人って?

甲木:おはようございます!西日本新聞社 ナビゲーターの甲木正子です。

梁:西日本新聞社の梁京燮です。

甲木:梁さんは、古典ラジオにハマってるっていう歴史好きですよね。

梁:古典ラジオが僕の人生を変えるんじゃないかという。

甲木:実は、この番組ディレクターの樋口さんがされてる番組ですよね。

梁:古典ラジオをやっていただいて本当に良かったなと思ってます。

甲木:その歴史について、今日はゲストを招きしております。

梁:僕、小倉の歴史は詳しくないのですごく楽しみです。

甲木:下関出身ですもんね。

それでは、本日のゲストをお呼びしましょう。生まれも育ちも小倉、歴史案内人の瀬戸春巴さんです。よろしくお願いします。

瀬戸:よろしくお願いします。

甲木:「歴史案内人」という肩書きでご紹介させていただきましたけど、一体どういうことをされているんですか?

瀬戸:私の本業はデザインの仕事なので、歴史家とか歴史学者というと、やっぱり大学の学者さんを指しますので。小倉に生まれて小倉で育ったということで、歴史も好きですけど、皆さんに歴史の楽しさや、特に歴史の知識よりも感覚を身に付けていただけたらなということで、小倉城庭園で十数年前から講義をしています。

甲木:その「歴史の感覚を身に付ける」ってどういうことですか?

瀬戸:例えば、平安時代の十二単がありますね、襲ねの色目や色の配列などを覚えるのが知識ですけど、感覚で言うと平安時代は寒かったんだなということをわかっていただけたら。

梁:なるほどね。(笑)

甲木:そういうことですか。(笑)

梁:だから、あんなに重ねて着てるんですか?

瀬戸:今は朝晩は冷えますが、昼は暑いですね。そうなると重ね着が便利なんですよ。

甲木:じゃあ、あれは脱いでいいんですか?

瀬戸:脱いでいいんです。

梁:僕、あれでセットと思っていました。

瀬戸:多いときになると、約32枚着るということもありますけど。

梁:十二じゃないじゃないですか!(笑)

瀬戸:あの5枚でもいいです。(笑)

甲木:それが歴史の感覚?

瀬戸:感覚を身に着けていただきたいんです。

梁:面白い!

江戸時代の小倉にタイムスリップ 小倉城、細川以前は砦だった

甲木:今日は小倉の街についてお話を聞きたいなと思っているんですよ。江戸時代にタイムスリップして、小倉の城下町について聞いてみたいんですけど。瀬戸さんは、城下町の話に非常に詳しいので。元々は細川家が築城したんですよね?

瀬戸:そうですね。細川さんが入る前は、今の室町辺り、あの辺りにいろんなものを売っていと「諸町」(もろまち)という町があったんです。

甲木: 「諸町」?

瀬戸:もろもろ売ってるから「もろまち」になったんじゃないかという説もあります。あの辺りは小さい街だったわけですね。小倉城はお城というよりも砦に近いようなもので、「勝山城」とか、「勝野の城」とか、「湧金(ゆうきん)城」とか色々呼ばれてたわけですけど。

甲木:そうなんですか!?

梁:小倉城のことを?

瀬戸:それまでは砦と思ってください。それが細川さんの入藩以来、大改造が始まるわけですね。それで現在のような小倉城ができるわけです。ですから、今のリバーウォーク辺りにも、遺跡といえば弥生時代の古い遺跡が少しありますが、小倉の街というのは悲しいことにそんなに古くはなくて、「こくらのつ」という言葉が文献に出てくるのは室町時代後期ですね。それまでは、大体荒れ地と思っていただいたほうが。

甲木:えっ!?そうなんですか?

梁:この辺り一帯が?

瀬戸:荒地です。竹林、松林、沼、それと遠浅の海。

甲木:海に近いですからですからね。

瀬戸:もし、卑弥呼は難升米(なしめ)を使わして、奈良が邪馬台国だったら、難升米さんは響灘じゃなくて、この辺りを船で行ったでしょうね。遠浅の海を。細川さんが入った頃には、今の東曲輪と呼ばれる堺町公園がある一帯が干上がってきて、町も形成されてくるんですね。

甲木:つまり海だったところが陸になって?

瀬戸:元は縄文海進では、あの辺はずっと海だったんですね。それが次第に、川からの土砂や海面が下がって。

甲木:そうなんですか。

瀬戸:古代の小倉というのは無いに等しいですね。寂しいですけどね。それよりも、北方とかあの辺ですね。

長浜の人が引っ越したから長浜?

瀬戸:ただ、今の井筒屋さんの南辺りに「瑜伽(ゆか)神社」という小さな神社がありますけど、あの辺りには漁師さんが昔から住んでいたんです。

甲木:じゃあ、まだ漁業の人が住んでいるような地区だったんですね。

瀬戸:そこに小さな神社があったのが、今の瑜伽(ゆか)神社の始まりで。創建は、元正天皇の御代と言われてますから飛鳥から奈良朝の頃ですね。そして、細川さんがお城を作るときに、そこの漁師さんがそのままではまずいので、今の長浜辺りに引っ越しまして。ですから、今の長浜は元々長浜じゃなかったんですね。例えば、大阪の佃に住んでいた人が、江戸の佃島に住んだから「佃」になったように、井筒屋さんの南の「長浜」「高浜」と呼ばれている人々が、今の長浜に引っ越したので「長浜」になったと。

甲木・梁:へぇー!そうなんですね!

瀬戸:万葉の歌に「企救の長浜」とか出てきますよね。あれは、あの辺ではなくて小倉一帯を示すと思っていただいた方が。

甲木:そうなんですね。その「企救」っていうのは、モノレールの「企救丘」駅ってありますよね。あの辺りが「企救」。昔は企救郡って言ってましたよね。

梁:ここも「企救」になるわけですね。

小倉の三方の惣堀 水門を閉めると城下町の外は水浸し

甲木:さっき小倉城の話が出ましたけど、以前、水門があるというお話をされていましたよね?

瀬戸:これはラジオなのでお話しにくいんですが、昔は小倉というと城下町までが小倉なんですね。北は海で、東は神嶽川を三本松というところで分流して堀を掘るわけです。今の砂津川ですね。

甲木:チャチャタウンがある辺り?

瀬戸:そうです。あの砂津川を掘で掘ったわけです。

甲木:そうなんですか。

瀬戸:それを小倉の「惣掘」とした。一番外側の堀のことです。

甲木:じゃあ、今小倉城の周りにあるあのお堀ではなくて、チャチャタウンの横の川が?

瀬戸:あれが一番外堀です。

梁:そうなんですか?

瀬戸:惣堀といってあれが小倉との境界です。ですから、あれを超えると小倉ではないんです。

甲木:広いですね。

瀬戸:南側は中津口辺りに神嶽川が分流して水路があったんですけど、今は埋められてます。

梁:そうなんですね。

瀬戸:それが紫川に行って、紫川を越えて次は板櫃川に行くと。その板櫃川を西の惣堀に見立てるわけですね。これで三方が惣堀で囲まれて、この中を「小倉」と呼んだわけです。

甲木:三方は惣堀で北が海。

瀬戸:板櫃川のところと神嶽川と砂津川の分流のところ。そこに大きな水門があるわけです。小倉の街というのは、今でも雨が降ると旦過が沈んだり、宇佐町辺りで水が出たりしますが、少し低いところがあるんですね。敵が南から来た時は、その水門を閉めると、小倉の城下町の外がだいたい水浸しになる計画ですね。ですから、お城と城下街を守るために、まず第一段階として馬や人がとれないように洪水を起こすわけです。

甲木:恐ろしい計画ですね。

梁:すごいですね。

 

〇ゲスト:瀬戸春巴さん(歴史案内人)

〇出演:甲木正子(西日本新聞社北九州本社)、梁京燮(同)

(西日本新聞社北九州本社)

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